ジュリアノの死 (2011年4月)

「ジュリアノが殺された」という東京からの知らせを受けたのは、大震災と津波の被災者支援で岩手県大槌町に入って数日後の早朝だった。破壊され焼き尽くされた街の残骸と犠牲者の多さは、原因は異なるとはいえジェニンやナハルエルバレド、ガザなどの光景とオーバーラップし、夢と現実の区別がつかないような状況のなかで、彼の死もまるで夢のように感じられたが、今東京に戻ってくると、その死が急に迫ってくる気がする。 

ジュリアノは、パレスチナ人の父親とユダヤ人の母親の間にナザレで生まれ、その後ハイファで育った。イギリスで演劇の勉強をし俳優になり、2002年のジェニン侵攻のあと、かつて母親が活動していたジェニンの難民キャンプに戻り、自由劇場を再建して活動をつづけていた。しかしパレスチナ社会でもまたイスラエル社会でも閉塞状態が続く中で、表現の自由を第一に考えるジュリアノの活動には、保守的・宗教的な勢力による妨害が続いていた。国際的な支援はあったとはいうものの、ジェニンの中での活動は決して生易しくなく、いつかは殺されるのではないかと言う予感を常に持っていたと聞く。

 彼の母親のアルナとは、1990年代に国連の会議でいつも顔を合わせていたことから知り合いになり、ジェニンで彼女が運営していた「Resist & Learn」を訪ね、アルナを支援し庇護している地元の家に泊めてもらったこともある。1996年春、久しぶりに電話をするとアルナは危篤状態で、数日後には亡くなったと知らされた。

 2002年春にジェニン難民キャンプが包囲され破壊されたあと最初に思ったのは、アルナの活動はどうなったのだろうか?ということだった。イスラエルの平和運動のメンバーに電話をかけて、リレー式にジュリアノにたどり着いた時には秋になっていた。そのときに映画を作っているという話を聞いて、フィルムが届くまでにまた1年近くが経ったと思う。

 その「アルナの子どもたち」という映画を翻訳し上映することになって、2005?年秋に、ジュリアノは日本にやってきた。東京では、明治大学で上映会を開き、映画監督の森達也氏と対談、京都でも上映会を開いた。このときに取材や上映のために、何日間も一緒に動いていたので、お互いに家族のことなどパーソナルなこともずいぶんと話をした。
 
父と母の出会い、アラブ人と結婚するというので家族から勘当され、教師の職を失った母のこと、イスラエル共産党の幹部だった父の関係でプラハで育った子ども時代、難病で死にそうになったときに母が必死の思いでソ連に連れて行って治療を受けさせたこと、ソ連軍のチェコ侵攻、共産党内部の路線対立でチェコから追放されたこと、父と母の不仲、兵役についたときに母が訪ねてきてくれた話、レバノン戦争で精神に傷を負った兄のこと、ジェニンでの活動に妻が反対していること・・・。彼の少年時代も決して平坦ではなく、二つのコミュニティーの狭間で苦しんだことから「アイデンティティーなんてものは、他人が貼るレッテルにしか過ぎないのだ」という言葉には非常な重みがあった。

 「アルナの子どもたち」は、アルナとジュリアノ親子がジェニンで一緒に演劇活動を行った子どもたちが、アルナの死後どのような人生を歩んだかを追ったドキュメンタリーだ。10人近くいた少年のほとんどが2000年から2003年の間に死んでしまった。しかし、アルナの活動は無駄だったのではないかという表面的な質問に、「子どもたちが自らの人生を主体的に生きることこそ、母の望んでいたことなのだ」と応酬していたのが印象的だった。

 「アルナの子どもたち」は、アルナの死から始まり、青年の一人のアラーの死で終わる。後半、武装組織の青年たちの日常が延々と続くあたり、もっと上手に編集をすれば分かりやすくなるのに、という声もよく聞かれたが、「いつイスラエル軍に撃たれるかと怖かったけれど、昔の教え子の前で怖いとはいえなかったよ。妻は映画を見て気絶しそうになった」と話してくれた。等身大の日常を描くことで、死んでいった若者たちの存在を残したかったのだと改めて思う。

 多くの死者と行方不明者、無残になった東北が、難民となったパレスチナ人ともオーバーラップして私たちを打ちのめすいま、割り切れない思いの中で生きている私たちに出来ることは何なのか。携帯電話に残るジュリアノの番号を見ながら、ハンサムでやんちゃで、マザコンだったジュリアノなら何を言うだろうか、その声を聞きたいと思う。(T)

2011.04.17 | | 未分類

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